いくら本職外野といえひどすぎないか
>>3
いや内野と外野じゃ全然ちゃうやろ
まあサードに関しては素人やから多少はね
大引復帰でようやく戸田に一人内野手送れるなと思ったら今浪ぎっくり腰
戸田の内野はボロボロ
こんなんやからいつまで経っても守備型野手が出てこんねん
飯原「まだまだだな。」
三塁の名前見たら捕手が3人いるんですがそれは
>>9
内野手が武内と谷内しかいないからね、仕方ないね
5/4から昨日の大引復帰戦前までセカンドに内野手一回もついてなかったらしいで
草生える
何がしたいねん
>>11
そら2軍の試合成立よ
一軍内野レギュラーメンバーが怪我しないのが救いやな
畠山山田川端の誰かが長期離脱なんてことになったら即終戦やで
奥村が悪いよー奥村が
復帰はよ
奥村まだ治らんのか
わいC、ウエスタンリーグではそうない火の車現象が理解できない
>>18
10年ほど前に2軍ローテが広池-玉山-大島-広池-玉山-大島になったことがあるんだよなぁ。
中継ぎは山本芳彦(野手)
原ってど田舎出身やろ?
昔の巨人にいた湯口みたいにならんかったらええけど
湯口事件(ゆぐちじけん)は、読売ジャイアンツに投手として所属した湯口敏彦が1973年3月22日に急死したことをきっかけに、監督の川上哲治はもとより、球団全体へのバッシングに発展した事件。
発生に至るまでの経緯
巨人は1965年に川上哲治のもと2年ぶりに日本一を達成し、以降1973年まで日本一連覇を続け前人未到のV9を達成する。日本一連覇の新記録となった4連覇を達成した1968年からドラフト1位指名選手を即戦力から将来性重視の方針に切り替えた(即戦力クラスを指名したこともあったが、結果的に即戦力→主力とはなりえなかった)。1970年のドラフトでは岐阜短期大学附属高等学校の湯口敏彦を指名し獲得した。
湯口は島本講平(箕島高等学校)・佐伯和司(広陵高等学校)と共にこの年の「高校三羽烏」に数えられ、プロでの活躍も期待されていた。しかし、入団直後は二軍で育成するチームの方針から二軍での調整が続く。1年目は肘の故障もあり二軍戦に17試合登板して5勝6敗と思うような結果が出ず、2年目は1年目に記録された76四死球を問題視され、フォーム改造を受けたが(後に中村稔2軍投手コーチにより、フォームは元に戻された)、2勝3敗という結果だった。数字的な結果を残せなかったものの、同シーズンの後半からは球団首脳陣からも評価され、年俸は上昇した。
この頃から湯口はうつ病の発作が見られるようになった。そして2年目のシーズン終了後の1972年11月23日、ファン感謝デーの紅白戦で、この前日に無礼講の例会があったこともあり体調が優れない中で登板。打者一巡・2ホームランの滅多打ちに遭い、これにより、川上監督をはじめ二軍監督の中尾碩志からも激しく叱責された。さらにこの夜湯口は寮に戻らなかった。これに対し中尾は湯口を拳で殴り、湯口はうつ病を悪化させた。11月27日の納会では誰が話し掛けても無言で、視点も定まらなかった。11月28日チームドクターからうつ病と診断され、11月29日には、都内の病院に緊急入院をする。
明けて翌1973年1月10日には東京都新宿区の晴和病院(元日本野球機構コミッショナーの内村祐之が当時院長を務めていた)に移される。うつ病の発作に回復の兆しが見え始めたが、マスコミの追及を恐れた球団側の意向により、2月15日には多摩川グラウンドに復帰、2月19日から宮崎県宮崎市で行われた春季キャンプに合流した。ところが、初日に同室の淡口憲治が話し掛けても反応しない、また真夜中に奇声を発する等の異常に気づき、淡口は藤本健作マネージャーに報告した。事態を重く見たチーム首脳陣は翌日2月20日、湯口にキャンプ合流を差し止め、強制送還(藤本マネージャーも同行)した。羽田空港到着後もロビーで奇声を発したり暴れたりしたため空港警備隊に取り押さえられ、再び晴和病院に緊急入院させられた。なお、球団は3月に入ってから、内規により入院費の支給を打ち切っている。
3月22日夕刻、湯口は病院のベッドで変死体となって発見された。
球団・病院は「湯口敏彦投手の死因は心臓麻痺である」と発表したが、湯口の死因を巡ってマスコミから「湯口は自殺し、その原因は球団にあるのではないか」と非難されることとなる。
来年は育成含めて野手沢山取れや
12試合6失策
http://bis.npb.or.jp/2015/stats/idf2_s.html