1 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/26(金)23:34:17 ID:BHb

1遊 大徳寺7世の法要にボロ布を着て参列

2右 最後の言葉が「まだ死にとうない」

3三 留守の友人宅に勝手に上がりこんで仏像を枕に昼寝

4投 正月に髑髏を持って街中を練り歩く

5左 70代になってアラサーの美女を侍らせセックスし放題

6二 師匠からもらった悟りの証明書を焼いて捨てる

7捕 女も好きだが男色も大好きという両刀遣い

8中 晩年に自分の像を作って髭と髪を植える

9二 パッと見立派な刀にみえる木刀を持ち歩く



2 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/26(金)23:35:10 ID:BHb

あ、セカンドが二つあった…6番はファーストで

8 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)00:13:31 ID:JWM

こんなのでも一応天皇家の血筋を引いているという事実

11 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)00:24:13 ID:gx3

血筋を引いてるどころか、追い出されなきゃ結構な確率で

自分が皇位継承しとったかもしれんのやろ。


坊主になってからも、

「次は彦仁王が即位するのがええと思うよ」

って、自分が推薦した親王が天皇(後花園)にそのまま即位したり、

とんでもない大物やないか

4 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/26(金)23:46:27 ID:xIx

天皇家の血筋を引いてこれってのがすごい

墓は宮内庁管轄だしな

5 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/26(金)23:55:45 ID:wll

ロックな生き方してたん?

6 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)00:09:57 ID:QJv

>>5

室町幕府に保護されてた寺が威張ってるのに反発して

格下の寺を本拠に活動してたんじゃなかったっけ

権威的なものはだいたい嫌いやったんやろ

7 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)00:11:33 ID:Gj5

逆になんでこんなのが尊敬されるのか?

9 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)00:14:19 ID:WCp

>>7

アナーキーな時代にはアナーキーな奴が出て来て人気になったりするんやない?

12 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)00:24:51 ID:Qv9

>>7

当代屈指の教養人である中で

仏教が権威化してる時代に権威を馬鹿にした行動をとったからやろ

中学校とかでも勉強できるけどアウトローな奴とか周りから一目置かれるもんやないの?

ワイの学校そんなのおらんから知らんけど



秋風一夜百千年とか好きな言葉やけどな

15 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)00:26:23 ID:Gj5

>>9

>>12

サンガツ

今やと生臭坊主とか言われそう(適当)

16 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)00:31:53 ID:Qv9

>>15

アホのくせしてそういう行動とってたら言われてもしゃーないやろな


でも実際は一流の教養人、学僧とも渡り合える見識の持ち主やし

戦災にあった寺を復興させたりしてるから

外面の形式だけ守って堕落しきった僧侶よりよっぽどまともやと思われとったんやで

14 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)00:26:19 ID:RFc

そもそも釈迦は拾ったような服着て布教してたわけやし

たっかい服着るやつらのほうが異端よね

17 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)07:12:08 ID:QJv

8中 晩年に自分の像を作って髭と髪を植える


そもそも晩年に髪あったのか

18 : 名無しさん@おーぷん投稿日:2015/06/27(土)11:42:34 ID:JWM

史実の一休和尚を実写化したら面白そうやなあ

一休宗純

https://ja.wikipedia.org/wiki/一休宗純


生涯


出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている[1] 。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという[2] 。


幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号である。


6歳で京都の安国寺[3] の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。


応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休も自殺未遂を起こしている。[4]応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。


応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。


正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったという[5]。文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持[6]に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。


文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)おいてマラリアにより死去。享年88。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が御廟所として管理している陵墓である[7]ため、一般の立ち入りや参拝はできない。