社会人やで
>>7
あーそうやな ばかやったわ
大学中退ってドラフトでは高卒ドラフト?
>>6
紆余曲折経て東芝府中に行ったから社会人枠
https://ja.wikipedia.org/wiki/落合博満
1969年、秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学[2]。体罰をも良しとする体育会系の風習が嫌いで、甲子園常連校ではなく無名の秋田工業を選択した。ところが予想に反して先輩による理不尽なしごきがあり、それに耐えかねて野球部を退部。野球部に在籍していた時期も、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。しかし、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した。落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場していた。高校時代は退部と復帰を通算7回繰り返している。野球の名門校ではないため野球選手のOBが少ないが、高校の後輩の川邉忠義とはそれぞれFA制度による移籍の影響で、巨人・日本ハムでチームメートになっている。
1972年、東洋大学に進学[2]。しかし、先輩がタバコを手にしたら後輩がそれに素早く火をつける、などといった体育会系の慣習に納得できず、故障もしたことで、わずか半年で野球部を退部して大学も中退。秋田に帰った。その後、ボウリング場でのアルバイトをきっかけにボウリングに目覚め、プロボウラーを志すようになる。ところがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まり、反則金を支払ったことで受験料が払えず受験できなくなってしまい、これも挫折した。
1974年、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社[2]。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加わった。ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現す。1976年には中心打者として、東芝府中を創部23年目で初の都市対抗出場に導く。1回戦でデュプロを降し初勝利をあげるが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退[3]。翌年以降も、都市対抗に日本通運、電電東京の補強選手として3年連続出場。1978年には、木田勇、森繁和らとともに第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出された[2]。この頃の落合は、日中トランジスタラジオの基板を組み立て、夕方から野球の練習をする、という生活を送っていた[4]。
1978年のドラフト会議でパシフィック・リーグのロッテに3位指名されて入団。同年の誕生日で既に25歳という、当時としては非常に遅いプロ入りとなった(通算2000本安打達成者の中で最も遅いプロ入り)。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた[5])。なお、巨人は落合をドラフト2位で指名する予定であったが、江川事件によりドラフト会議自体をボイコットしたため、指名は実現しなかった[2]。
東芝行ったのも偶然やし、下手したら田舎で埋もれてたんやもんな…
>>11
たられば言うたらプロボウラーで成功しとった世界線もありうるやろ
落合をスピード違反で捕まえた警察官って今でもそのこと覚えてるんかな
野球選手として考えても中退ってかなりのハンデなのにプロ入りして球史に残る選手になるってすごいよな
>>4
野球選手は結構卒業してへん人多いで
中退野球選手って他にいる?
>>13
ほか中退で有名言うたら後藤光尊やな
https://ja.wikipedia.org/wiki/後藤光尊
その後スポーツ推薦で法政大学に進学したが、上級生らによりいじめを受けて留年が確定し、そのまま大学を中退する[1]。その後、1997年に同じ秋田高校OBで川崎製鉄千葉野球部監督の斉藤正直に誘われて同野球部に練習生として参加し、1998年に入社。
>>13
阿部や長野も中退やで
長野が取得した単位4だってさ
ピーコや江本、どんでん、稲葉とかも卒業してないし
伊原や片岡もプロ入り時点では卒業してない
伊原は引退後復学して卒業
片岡は大学在籍のままプロ入りオフに大学通って卒業
>>16
長野なにしてんねん
こんな多かったんか
伊原は学生運動の影響で大学が閉鎖して授業受けられんで4年次終了
指名されたのは芝浦工業大に通えん西鉄やから中退で入団
脳筋できちっと卒業する気がなかった奴とは事情が違う
まあ野球しながら単位はきついもんな
どんでんも中退ちゃうかったっけ?
どんでん学校中退してたんか
あいつ頭で早稲田入ったんちゃうかったけ?
>>29
まあ体専やし
そもそも日本のプロ野球選手第一号の三原からして中退だからね
>>25
学生結婚してそのまま辞めちゃう破天荒な奴は今じゃいないやろなぁ
東洋大学中退